おせちと言うと、お正月に食べる、豪華なお膳に綺麗に盛り付けられたり、三段のお重につめたりする豪華なお料理ですね。
それは新しい年を迎えてやってくる歳神様にお供えするご馳走であり、それを家族みんなで食べるのは、お祝いの意味をこめた大事な祝祭でもあります。
ですから、故人をしのび、祝いごとを避けるべき喪中には、おせちを食べることも避ける、というのが一般的な習慣で、考え方です。
そして喪中のその間はおせちの代わりとして『普段通りの食事』である、日常と同じご飯とお味噌汁、お惣菜など。
可能ならばその場合も精進の意味を込めて肉や魚を避けた物を、家族全員だけで静かに囲む、という形にすることも多いようです。
それでも現代では、おせち自体の神事や祝祭という意味あいも薄れてしまっていたりして、喪中でなくてもおせちは食べない、用意をしないというお宅もあります。
ですから喪中であっても、「おせちを食べるのはタブー」とする大半の意見から、「特定のおめでたい食材を避ければOK」、「まったく気にせず普段通りのおせちを食べます」という意見まで、その人ごとに幅広く分かれています。
それでも、身内を亡くして悲しんでいる時期に、お祝い食であるおせちを食べる気分にはならない、ちょっと抵抗がある…という場合について、もう少し考えていきますね。
喪中のおせちの中身は何がおせちの代わりに向いてる!?
喪中のときは、故人をしのび、死出の旅路が平穏であることを願って残された人たちが精進したり祈ったり、自身の心の安寧をはかるための時期です。
喪中のなかでも特に忌中とされる四十九日の法要が終わるまでは、お祝い事を避けたり、殺生を避けたりするという意味で、旅行やパーティなどの楽しみ事や、酒食のうちの酒や肉魚などを断つという形で示したりしますね。
残された人たちの当人だけではなく、それ以外の誰かのお祝い事、たとえば友人知人の結婚や出産のお祝いも、受ける方が縁起を担いでご不幸中はと断ったりする場合もありますので、そうしたときにも“喪が明けてから改めて”という形でお祝いをしたりもします。
こうした注意事から考慮して、おせちの中身も明らかにおめでたいとされるものや、精進の時には向かないものなどを外してゆき、ふさわしいもの、形式を選んでみるとこのようになりますね。
- 紅白の食材のうち、めでたい色の紅を除き白のみにする(かまぼこ、なますなど)
- 飾り切りなどは止めて華やかさを避ける
- 精進という意味から、肉や魚などを避ける(海老、鯛など)
- お重箱に詰めず、皿に盛る形にする(重箱=重なるという意味合いを持つため)
- 祝い箸にせず、普段使いの箸や割りばしなどを使う
- お屠蘇は酒としてはタブー、しかし邪気払いとしてならOK。ただし金箔などは避ける
少々見た目が地味になりますが、こうしたことを考慮すれば、喪中でも決しておせちを食べてはいけないということにはならないのです。
喪中でもおせちを食べたい人必見!他にもできる工夫とは!?
おせちはお正月のおめでたい縁起物であるのと同時に、かまどの火を三が日は熾さない、すなわち、いつも忙しく休みのない家庭の主婦を三が日は炊事の手間から解放させて休ませてやるためのものという意味あいもありました。
そうした意味を重んじるということでしたら、明らかに華々しいお祝い膳としてではないおせちを喪中に食べたとしても何も問題はありません。
そもそも、おせちの中身や何を食べたかなんて、誰かに公表するものでもなし。
はっきりと言ってしまえば、もうお正月のおせちを用意しない・食べないという家庭もだんだんと増えてきている昨今、あなたがそれで良いと思うのならば、自由にしていてもまったく構わないのです。
でも、自由にしていいと言われても、工夫をしたり色々なものを避けたりしても、それでもちょっと…と心理的に抵抗がある場合は、さらに別の視点からの考え方をしてみることもできます。
それは例えば、通常のおせち料理ではなく、他の料理を含めてオードブルのような盛り合わせにしたり、さらには洋風や、中華風のおせちにしてしまったりという方法。
日本の歳神様を迎える祝いの膳という意味合いもある日本の通常のおせちでは、どうしてもお正月のめでたさ、お祝い事の祝福のイメージがつきまといます。
そこを避けるために、日本古来の「めでたい」とされる縁起物ではない内容が大半の、外国料理をアレンジされた形だけのおせちにするという手があるのです。
そうすれば、それはただの年越しの時期の、家族のちょっとした食事という意味合いにしかなりませんからね。
ただし、その場合であっても、やはりお祝い事という意味を避けるために、誰かを招いたりすることは止めて、家族で粛々と食事をするというところだけは守るべきです。
また、おせちを自宅で作るのではなく注文してお取り寄せしている場合、タイミングによっては、『もう予約したおせちが届いてしまう』時にご不幸が起きたりだってするもの。
届けられたそれを食べることなく廃棄したり、ただ無駄にしたりというのは、何よりも罰当たりなことになってしまいかねません。
なにより大事なのはあなたの心です。
故人を思う気持ちを忘れることなく、こうして美味しく料理をいただけることをありがたく感謝したり、あの人はこれが好きだった、食べさせてやりたかったな、など故人を思い出したりすることで、ひとつの供養にするという考え方だってできるのです。
まとめ
親しい人、身内を亡くして悲しんでいる間のお正月というのは、なかなか気分的に複雑なもの。
喪中はがきを送って知人友人に知らせ、年賀状のかわりに寒中見舞いを頂いたり送ったりなど、通常の故人を見送る一連の葬儀とは別の、こうした普段は普通に過ごしてきた行事や日常生活にも色々な変化があって、気持ちもいよいよ沈みます。
おせちもそのひとつですね。
我が家が数年前に義母を亡くした冬には、同居でこそありませんでしたが、喪中どころではなく忌中の時期に年越しを迎えることになりました。
そのときは葬儀だのと慌ただしさもあって、おせちどころかお正月どころではありませんでしたね。いつの間にか年越しをしてしまっていたと、我に返って驚いたくらいです。
そうした経験から考えてみても、現代ではよほどの理由でもない限り、おせちそのものにはそこまで深い意味をこめずに単に習慣としてあるものだと思ってみてもよいのではないかと思います。
ちなみにさらにその翌年になり、年末から年始にかけての我が家では、前年にできなかった華やかなおせちを準備すると共に義母の写真も飾って手を合わせて、一緒に新年を迎えることになりました。
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